採用・育成

『自ら同僚の手助けをすることは是か非か?』

こんにちは。
グループホームHARUの松本です。

私がまだ若かりし頃、
同僚が仕事が終わらず帰れずにいたので、
手伝っていました。

すると翌日それを知った上司から注意をされました。

「上司に確認なしで自分の判断で同僚を手伝うな。
 それぞれに守備範囲がある。
 それをやり切るのが彼の責任だ」

と言うのです。

同僚が困っていたから助けた。
別にタイムカードを切って手伝っていたので、
残業がついていたわけでもない。
何がいけないのか?と理解できませんでした。

組織のルール本などを見ると、
この上司が言っていることは間違いではないと
後々気づかされました。

別な部署にいったら、上司から逆のことを言われました。

「同僚のAさんが困っているのに、
 なんで手伝ってやらないんだ?
 俺が指示しなくも、フォローしてやってほしい」

というのです。

どちらが正解なのでしょうか?

組織の基本ルールでいくなら、
上司に確認してから同僚のフォローする。

でも同僚のフォローするくらいで、

「〇〇課長。Aさんが△△の件で困っているので、
手伝わせていただきたいのですが宜しいでしょうか?」

いちいち上司に確認を取るのも、
いかがなものか…とも思います。

この時、上司とすぐに連絡が取れなかったら、
許可がでないので、手伝ってはいけないということに
なるのでしょうか…。

どちらも正解なので、
結局は、上司がどのような組織を創りたいかで
判断は変わるでしょう。

ちなみにうちの会社では、
上司の許可なしに同僚でフォローし合うことを
推奨しています。

「お互い様精神」で困っている時に助け合う。
そこに上司へのお伺いを立てることは必要ありません。

みんなで協力して、早く終わらせて
みんなで早く帰る。

報告は社会人としての基本だとは思います。
とはいえ、なんでもかんでも報告してからでないと
行動できないとなると、臨機応変に対応できません。

皆さんの組織では、
同僚への手助けはどう考えますか?

『アドラーの「課題の分類」を福祉に活かす』

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■間違いだらけの「障害」と「グループホーム」■
『アドラーの「課題の分類」を福祉に活かす』
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こんにちは。
障害者向けグループホームを運営する松本です。

『嫌われる勇気』という本がベストセラーになり
アルフレッド・アドラーが再注目されました。

彼が提唱している一つに「課題の分離」という
考え方があります。

~嫌われる勇気より~
まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。
そして課題の分離をしましょう。
どこまでが自分の課題で、
どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きするのです。

言い方を変えれば、他者の課題には介入せず、
自分の課題に誰一人介入させないということ。

勉強をしない子供とその親の例が出てきます。

勉強をしないことで授業についていけず、
希望の学校にいけないのは子供自身。
勉強するかどうかは子供の課題。

親は勉強することは本人の課題であると伝えること。
見守り必要な時に支援することが親の課題。

自分がコントロールできるものには
自分の課題と認識する。

自分がコントロールできないものは、
相手の課題と認識する。

そこに境界線を引けるかどうか。

福祉の世界では、この課題の境界線を引けず、
自己責任で全て捉えて、
心が疲弊してしまう方がいるように感じます。

相手が誰であれ、
他人を変えることはできません。

支援者としてやるべきことをやったら、
そこから先は「相手の課題」と線を引くことが
必要ではないかと思います。

『アドラーの「目的論」を福祉に活かす』

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■間違いだらけの「障害」と「グループホーム」■
『アドラーの「目的論」を福祉に活かす』
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こんにちは。
障害者向けグループホームを運営する松本です。

一昨年は、
アルフレッド・アドラーがブームになりました。

現代にも通じる理論なのでしょう。

フロイトによって提唱された「原因論」と
アドラーが提唱した「目的論」はしばしば対比されます。

「原因論」は、我々は何かの原因が過去にあって、
現在の結果があるという考え方。

一方で、「目的論」は我々は何かの目的があって、
現在の結果を作り出しているという考え方。

どちらかが正しいというつもりはなく、
どちらも正しいと思います。

アドラーが否定する通り、
原因Aがあったら誰しも
現在の結果Bを生み出すわけではない。

対人関係はもちろんビジネスの多くのケースで、
過去の原因Aが現在の結果Bを作り出したと
言えることがあります。

ただし全てが原因→結果では説明が付きません。

何かの目的があり、現在の結果を作り出していると
考えたほうが説明がつくものもあります。

乱暴な事例を出すと、

・愛情不足(原因)→子供が親に反抗する(結果)

・子供が親に反抗する(結果)→親の関心を集めたい(目的)

ということがあります。

福祉の世界で仕事をしていく時も、
「原因論」「目的論」の両方で
利用者を見ていくといいでしょう。

(原因論)
過去のAがあるから、今のBという行動を取る。

(目的論)
今のBという行動を取るのは、目的Aがあるから。

アドラー理論は、
福祉の世界でまだまだ活用できそうです。

『研修は何のためにある?』

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■間違いだらけの「障害」と「グループホーム」■
『研修は何のためにある?』
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こんにちは。
障害者向けグループホームを運営する松本です。

毎年1回は虐待防止研修を受講しますし、
スタッフには受講していただいています。

毎回ながら、この内容を学んでいると

「管理と権利」を行き来しますね。

運営側の都合でいえば、安心・安全を確保したい。
ケガをしないように、トラブルが起きないようにとすると
何かと制限が増えていきます。

制限が増えていくと、利用者の権利擁護の観点で
問題点が出てくる。

その逆もしかり。

「利用者の権利を重視する」ということに
重点を置くと運営が難しくなる。

毎日トラブルやイレギュラー対応が起きて、
対処できなくなるでしょう。

安心・安全面でこれ以上、
責任が取れないと感じることもある。

研修講師の方がお話する内容は
理想論になりがちです。

グループワークなどをやると

「それができたら苦労しない。
うちの現場ではどう考えても難しい」

という声が聞こえてきます。

でも研修は理想論でもいいと
私は考えています。

現場のことばかりやっていると、
どんどん現場都合のルールがまかり通り、
視座が高まりません。

理想論を聞いて、自己矛盾を起こして、

「本来はあるべき姿はこうだよな。
 何か近づける方法はないか」

と考えて少しだけも改善すること。

それが研修の役割だと思います。

『利用者とスタッフとの距離感』

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■間違いだらけの「障害」と「グループホーム」■
『利用者とスタッフとの距離感』
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こんにちは。
障害者向けグループホームを運営する松本です。

グループホーム事業を一般的な業界に置き換えると
お客様=利用者、サービス提供者:運営側、
ということになります。

昔は「お客様は神様」と言われていましたが、
今の時代では、捉え方が変わってきていますね。

利用者はお客様ではありますが、
神様ではありません。

かといって友人でもありません。

よくグループホームは一つの屋根の下で
“家族みたいだ”という人がいますが、
実の家族とも関係が違うかと思います。

利用者とスタッフとの距離感は何がベストなのか。

私はお客様と友人の中間くらいが
丁度いいのではないかと思います。

「お客様」に寄りすぎてしまうと距離が出ます。

心の距離があると利用者の困っていることを
聞き出して対処することはできません。

「友達」にしてしまうと、
サービス提供側のプロフェッショナル意識が
向上しません。

お金をいただいている意識がないと、
惰性で仕事をします。

「家族」でも同様です。

家族ならば
「心が繋がっていれば知識・スキルなんて…」
と精神論に偏りがちになります。

親しみやすさを持ちつつ、
礼儀正しさを忘れない。

常に近い存在でありながら、
プロフェッショナルリズムを持ち合わせる。

過度な期待かもしれませんが、
スタッフにはどちらも兼ね備えてほしいと思います。